昭和四41年03月15日 夜の御理解
「信心をさせて頂く者は、何事にも信心になれよ」と仰る。何事にも信心になると云う事は、本当に実意丁寧にその事を通して思うて見なければ、その事が果して実意丁寧か信心かというと、そうでない様な場合が、いくらもあると云う事ですね。私は、今朝方、お夢を頂いたんですね。ここで、皆さん大掃除があっておる様です。それを私は、そこにおられるのは久富繁雄さんやら北野の福島さんやらがおられる。
福島さんやらは、ただ丁度お参りし合したら、大掃除があっておったから、お手伝いしよると言った様な風なんです。久富さんは、もう一寸、こう酒屋の番頭さんの様な小さい半天に「発心」という、酒屋の前掛けをはめて始めから大掃除の御用に来ておられると、言った様な感じですね。そこで私は、この紋付袴付けて次々といろんな押入の中から物を出しておる。こんなボール箱に、きちっと荷造りしたものをですね。
私はそれを大事なものだからと思うんで、それを出したんです。けれども大掃除だから、一ぺん片付けてせにやいかん。繁雄さん手伝って、ほどいて見てごらんと言うて。ほどいた所が、中身はもうなんにも、その綿屑の様な物やら、もう何というてこれいっちょ役立つ物がないじゃないかと言った様な物が、一杯詰っているんですね。これはもうあんた焼いてしまわなあいけんて、これはもう焼いてしまいなさい。と言うて外に出させて頂いたお夢を頂いて。
その中に丁度善導寺の親先生がお見えられてから、私に「大掃除しよるとに。あんた紋付羽織りどん着けてから」と言いよんなさった所に、目が覚めたんです。私はその全然致しませんもんですから、ただそう云う事の中からどんな事だろうかと思いよったんですけどもね。私は今日はそれをつくづく分らせて頂いた事なんですけれど。私達のその一つの心の上にも、形の上にもこの無駄な事というか、なぁにもならん事を持ち続けておる事が一杯あらせんだろうか。信心にならせて頂いたらすぐ分る事をですね。
それを、大事な物の様にしてからとっておる。なぁにもならん。場所も必要だし、必要でないものは、ちよっと詰めてから、荷造りしてなおしておると、言った様なですね。様な事がお互いの生活の中に、いくらもありやせんだろうか。昨日の晩でしたか、昨夜でしたか、田代さんがお参りになってから、娘さんの和枝さんの今度、腹かけの腹に帯をかけるお祝いが、それなにか、田代さん達は何人も子供さん達を持たれたけれども、そんな事はした事がないち。
なんか、お餅をついて持っていかなあならんとか、あちらでは何かお膳部を作らにゃならんとか、お産婆さんを呼ばならんとか、門内にお配りもしませばならんとか、言うて、田中さんは、この辺の仕来りの事を、あの人は中々詳しいんですよ。家当りは、そんな事なんか全然知らないもんですから、もう致しませんのですけれど。ああ云う様な事もですね。実を言うたら、聞きよってからなあにもならんこっち言う様な事があるですね。私共の生活の上に。
それは例えば家も裕福で、さあ初孫ができるというので、嫁がまあいっときの腹掛けの帯のお祝いをするから、もうそうさせて貰わにゃおられんのですね。お腹の子供を祝うてやらにや、おれない訳なんですね。ですからそこ赤飯のひとつでも、知った人でも招いてからでも、お祝いをする。そんな事が、それがいけないのじゃない。けどそう云う事が。 段々せにやならんもんと云う事になってせからしかばってん、せんならんというものであったら惟はもう、大変無駄な事だと思うんですよね。そうでしょうが。
それがそう云う様な、まあ、裕福な家庭でですよ。初孫が出来るという、帯びかけのお祝いに赤飯でも炊いて、お神酒でも出して、知った人を呼んでから、お祝いをすると。これは、そうさせて貰わなければおられないのですから。それは私はいけないとは思わないですけどね。そう言う様な事が、そうせんならんものだと云う事になって、それがでけない人やら、煩わしいと思う人が矢張り近所、手前でも、そればせんならんと言った様な事は、これは本当に詰らない一つの虚礼だと、こう思うんですよね。そう言う様な事が、お互いに生活の中にもあるんです。
それが大事な事の様にして田代さんなんか、非常に詳しいですから、自分方のそれはもう、えらい几帳面に何の事でもされる。して私なんかの方はろくそな方で何もならん事はもうせんという生き方なんですから。やっぱする者は、せん者に対してから、どうした何も知らん事じゃろうかと言った様な事になり兼ねないのですけどね。その事を私は、善導寺の事に付いてから、今度思うて見ました。
本当に親先生に対してからでもとか、親教会とか、又、出社とかいった関係においてですね。いらん義理を立てとったと言った様な事を、大事な事の様に思とったのを、なんか一掃してから捨ててしまったという感じが今日致しましたですね。その大掃除の中に親先生がみえておられてから、私がここで、大掃除をしておるのに私が紋付袴を着けておる事に対してですね。
「あんな一寸、大掃除しよるのに紋付袴どんつけてから」と言いよんなさるけど、ここでは、それをする人達がある訳ですよね。だから私がたすきかけで、バタバタやらなくてもいい訳なんですけども、親先生はそう思うておられる。今度の春の御本部参拝でも、丁度こちらが四月の十三日にあたっているんですよね。割り当てが。四月十三日になると、うちの大祭の前で、もうこっちにしても困る。
私は今度、学院に参りますのにこの月末に参りますから、皆さんは四月十三日は、そんな風ならもう行かずに今月の月末の内に、四月にお参りする者は、みんな親先生にお供してから行こうと、こう云う訳ですね。ところが、善導寺としては、何時もここから五十人位お参りするもんですから、五十人位申し込んであったと云う訳なんです。こんな訳で「今度お参りの人数がこんな訳で御座いません。
今度、父があちらに参りますから、父と一緒に行くという人達もあるし同時に旅費が、何時もの倍になっとりますから、それでお参りでけないという人もあるし、同時に一番困る事は、十三日であると云う事が、一番お参りでけない理由ですから」と、いう理由を話した所が。「そりゃあんた、あたしや、あたしが顔はどげんなるの」と、親先生が仰ったそうですけれども。こう言う風な事でも、あまりにも、いらん事に今まで義理を立てて来た様な気が致しますですね。
だから一遍ここんところ皮切りをきっておくと、もう、こちらもおれにこだわらなくてよい。これから、親教会も椛目をあてになさらんだろうとこう思うんですよ。だから今日、協議が午後から、あちらからもう一遍確かめちから参拝者がでけるならばというて、わざわざ見えて頂いたそうです。あちらのお弟子さんが。そん時に、やっぱり昨日申し上げた通りに、参拝者は「ございません」でした。というてから帰したというから、「そげなことがあるもんか。
たとえそりゃ五人か十人かでもお参りするごと風にしなくちや、親先生の顔も立たんけんで、そげんことがあるもんか」と私は怒ったんですが、けれども、怒った後に思うたんですよね。朝のお夢をちょっと思い出したんですよね。例えば、五人でも十人でも、その義理立てに参ると言ったような、例えば十人ならば四万円も、今度いる事で御座います。今度旅費だけでも四千円掛りますから。そげな馬鹿な事は、今までは本当にもう、その対してから義理立てしよったと云う事ですね。
こう言う様な事も、私はこれを大事な事の様にして、運んでおった。そういう意味合いで椛目と善導寺の間で一つの大掃除がありよるなあと言った様気が致しましたんですけどね。そう云う様な上にも、心の上にも又。私達の日常生活の仕来りの上にもです。例えば、もう詰まらん事に金を掛けてです。本当に心からそうしたいという気持ちもないのに、さあ子供の腹かけのお祝いにお餅をつかんならん。赤飯を炊かんならん。近所を呼ばんならんと言った様な、その心からお祝いしょうと気持ちもないのに、そういう仕来たりがあるからというて、そうすると言った様な事は。
惟は早く改めて行くべきだと形の上にもね。信心の色んな上にもです。私共の上にも、そう云う様な言わば虚礼とか虚式とか言った様な物が、まあだいくらもありやせんだろうかと思います。それが何事も、本当に信心になりゃいいんだけれども、人情とか義理とか言った様な物が先に立って、私共が本当の事を見失っておる様な事がいくらもある。今度の様な場合なんか、本当にお繰り合せを頂いて、昨日、今日の事をいって大体お断わりしておる。昨日も、私がもしおったらですね。
恐らくせめてなら五人か十人か参るごとしとって下さいと言っているに違いないです。そうすりや、もう虚礼になるんです。もういらぁん事に義理立ての事になるんです。それで又、夕方、豊美がお参りさせて頂いてから「こんな訳ですみませんでした。」「いんやもうよかよかあちらにもう、連絡したけんで。」いううちから、あっさり言うて頂いたという訳です。これから事は、楽だと思うんですよ。
今朝から頂いたお夢の事は、そんな事だったと私は思うんです。これをもう大事な事の様にして、なぁにもならん物を箱に詰めて。そして押入れに。いよいよ他所におく時も、大事なものとして、又元ん所に直しておる様な事もあったんだけど言う事です。それをお繰り合せ頂いてから全部焼き捨ててしまったという感じが致します。そげな事が例えば、いまいう生活の上にですね。もう、本当重荷になった。
折角、楽しい生活のエンジョイでける事をそれを、その義理人情や仕来りやらに縛られて、つまらん事に金を掛けたり、時間を掛けたりしておる様な事もあろうと思うんです。そう云う事は、もう何事も信心にならせて頂いて、義理人情じゃない。先ず信心になっていかなければいけないと云う事ですね。
どうぞ。